旅する天然石バイヤーが北海道の教育委員会に勤めるようになった本当の理由
マヤ族と生活をしながら
メキシコ南部、グアテマラとの国境近くの山岳地帯の町でマヤ族と生活をしながら天然石の買い付けを行なっていた2019年。
その一年ほど前まではネパールでバドミントンの代表コーチをやっていました。
代表での練習は午前のみ。
時間を余していた僕は、首都のカトマンズで天然のクリスタルを買い付けるようになりました。
毎日のようにカトマンズにある天然石屋へ足を運び
「お前ほど毎日クリスタルを見に来たやつはいない」と最後に店主に言わしめるほど、街中の天然石屋を周りました。
その後、北海道の美瑛町でクリスタル屋を1シーズン行い、アメリカのセドナでクリスタルアーティストと一緒に生活をした後メキシコへ飛びました。
朝起きて、近所の野良犬と町内の散歩をしながらすれ違うマヤ族と挨拶を交わす。
標高2300mの町では太陽が昇るとすぐに暖かくなり、
住んでいた家の屋上のバルコニーで美味しいコーヒーと安いパンの朝食を食べていました。
街へ出ると色々な天然石や、世界を旅する作家たちが自分たちの作品を販売しています。
マヤ族を含め、子供の頃から装飾品を身につけることが生活の一部として根付いていた町で旅と石の生活をしていました。
田舎で小さな天然石屋を
メキシコで半年の生活を行いながら、買い付けを行なったオパールやアンバーを中心に色々な天然石の買い付けも行なっていました。
買い付けを行なっていた時に、自分の中で理想としていた天然石屋は、
〝田舎でひっそりとやっている小さな天然石屋〟
そんなこともあり地元周辺の町で小さなお店をやろうと考え、条件が該当しそうな町とコンタクトを取っていました。
しかし今いる町から言われたことは、「高校魅力化コーディネーターという職種を募集していて、条件が該当しているのだけど、考えてみてはどうか?」とのこと。
正直どこかに勤めることを考えていなかったのですぐにピンとはこなかったものの、さほど抵抗感もなかったので面接を受けることに。
北海道の小さな町で天然石屋をやるつもりが、気がつけばスーツを着て校長と教頭と教育委員長と面接をしていました。
当時38歳。
これが事の発端でした。
オーバーオールで来ていいよ
見事採用となった僕が後に知ったのは、そもそも僕しか面接に来なかったという事実。
そんなこんなで晴れて教育委員会の職員となりました。
世界を旅しながら、時にはバドミントンを教え、天然石の買い付けを行う。
ブロガーとしてサイトを運営する傍ら〝名もなき石屋〟というマクラメのアクセサリーと天然石の店舗運営。そして教育委員会。
ただこちらの教育委員会、というか当時の教頭や校長が寛容だったこと。
「明日から毎日オーバーオールで来ていいよ」と、学校側から提案をされました。
ここに採用となる前に自分の運営するブログを見られていた僕は、オーバーオールの姿でクリスタルやオパールを売っていたことを知られていました。
すでに僕が書いていたブログの記事はプリントアウトされ職員室で教員に配布されていたのです。
「高校魅力化コーディネーターが魅力的じゃなくてどうするんだ」
そんな教頭先生の意向が強く反映され、僕は毎日オーバーオールで高校に勤めることとなったのです。
40歳手前で就職
年齢がどうのこうので考えてはいないので、40歳の手前で就職したかどうかは僕自身にとってはさほど意味を持たないこと。
面白ければ続けるし、面白くなければやめればいいだけ。
でも、世間的に考えた時につい最近までメキシコ山間部の町でマヤ族と生活をして、天然石の買い付けを行なっていた旅人が、教育委員会に勤めるということは少々ギャップのあるキャリアかもしれません。
僕自身、かっちりとした就職はそもそも望んではおらず、田舎でのんびり天然石屋をやるはずが肩書きだけを見ればお堅いところへの就職になりました。
驚いたのは自分自身ではなく周囲の方。
家族はもちろん仲の良い友人まで、多くの人が驚きを見せてくれました。
僕自身も不安がなかったかと言われるとそうでもなく、今さら一般社会の組織でどれくらい受け入れられるのか、またどれくらいのレベルで仕事ができるかなど不確定要素も持ち合わせていました。
就職することを諦め、自分の好きなことをやってきたこの人生。
今回に限ったことではありませんが、今後もどのような人生の方向転換があるかは全く予想がつかないものです。
結果として夢は現実に
〝日本に帰ったら絶対に教育関係で働きたい〟そんな夢ではなく、
〝日本に帰ったら田舎で小さな天然石屋をやりたい〟という夢は叶い、理想的な店舗運営もできています。
メキシコシティの雑居ビルの片隅で見つけたフランス人がやっていた小さな天然石屋。
なぜフランス人がわざわざメキシコの雑居ビル片隅で天然石屋をやっているのか。
そんな想像をさせるだけで、彼の生き方と揃えている石のセンスに魅惑を感じました。
「日本に帰ったら小さな天然石屋をやるよ」
そういうと彼はフランス語なまりの強いスペイン語で、「それは最高だな。お前なら良い石屋になれるぞ。これは前祝いだ、持ってけよ」と言って、カルサイトの原石をプレゼントしてくれました。
世界各地で様々な天然石屋や装飾品を見て、理想としていた自分のスタイルで運営する天然石屋。
そんな小さな夢を叶えることができたのも、教育委員会に勤めることができたからかもしれません。
これが一連の流れ
よく多くの人に「何がどうなって教育委員会に勤めることになったの?」と聞かれることがあります。
僕が日本で質問をされることはだいたいいつも決まっています。
「今まで行った国でどこが良かった?」
「どっから他国の代表コーチの話が来るの?」
「なんで天然石屋を始めたの?」
「どうやって旅人から教育委員会に勤めることになったの?」
これらのことは、どこへ行っても質問をされることです。
興味を持ってもらうのはありがたいことかもしれませんが、僕からするとそんなに気になるものなのかなと思うことも。
当事者の本人とはそんなものです。
天然石のバイヤーから教育委員会への転職ではありません。
天然石のバイヤーとお店を運営しつつ教育委員会でも仕事をしているだけのことです。
パラレルキャリア。そんな言葉も今ではあるくらい。
世間の枠組みの中で物事を作り上げるのではなく、オリジナルのスタイルで物事を作り上げる方が僕には合っている気がします。
僕が教育委員会に勤めるようになった一連の流れは、さほど特別なものではなく、結果として自然の成り行きでたどり着いただけのことです。